【ゲーム会社史】そのゲームを作ったのはというyoutubeチャンネル様に、【完全解説】突如表舞台から消えた伝説「ハドソン」の創業~撤退までの歴史 1973~2014という動画の台本を提供しました。
この記事は、その台本の ( 初稿の ) ベタ貼り記事です。文字情報でザザっと追いたい方用です。
実際の動画では投稿主様の方で一部内容修正されているので、動画にはない情報も含みます。補完関係になっているので、流し読みでも構わないのでご覧いただけたらと思います。
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はじまり
みなさんはハドソンという会社を覚えているでしょうか。任天堂がファミコンをリリースし始めた家庭用ゲーム黎明期の頃、ハドソンはすぐに頭角を現し、以降業界の雄として長らく君臨しました。同業他社が目を見張る技術力の高さ、そして多数の人気IPを武器に業界を席巻していましたが、2000年代に入る頃から一転して経営難に陥り、コナミに吸収合併され消滅してしまいます。あまりに悲しかったこの転落劇はなぜ起こってしまったのか。それを解説するには、この会社の設立当時から歴史を追っていく必要があります。この動画では、ハドソンというメーカーの栄枯盛衰を徹底解説していきます。
ハドソンは1973年に工藤裕司(くどうゆうじ)氏とその弟・浩(ひろし)氏によって設立されました。兄の裕司氏は1947年の戦後生まれでして、北海道のニセコで育ちました。1960年代~70年代はいわゆるSL(蒸気機関車)ブーム。『銀河鉄道999(スリーナイン)』のモデルにもなった人気のSL『C62』が地元ニセコ駅も走っていたこともあり、裕司氏はC62(特に地元を走っていたC62-2号機)の大ファンでした。大学生の頃には友人たちと自前のSL写真を販売するビジネスをしていたそうですが、ほどなく金銭トラブルが生じてしまいビジネスは白紙に。名古屋でサラリーマンも経験したそうなのですが、じきに退職して地元・北海道へUターンします。しかし裕司氏はめげず、今度は地元でSLの写真を販売する会社を設立しようとします。そして「今度こそは信頼できる人物をパートナーに」ということで、北海道で大学生をしていた7歳年下の弟・浩氏を新会社に誘います。その際に、なんと浩氏は大学を中退させられてしまったというので、まるで絵に描いたような「自由すぎる兄とそれに振り回される弟」という構図です。ともあれ、こうして1973年に設立されたのが『ハドソン』でした。
ハドソンという社名の由来はC62の車軸配置の愛称だそうです。また、会社の所在地には郵便番号が『062』で始まる札幌市豊平(とよひら)区を選び、会社の電話番号の下4桁は『4622(C62-2号機)』で統一するという徹底ぶり。趣味が高じて出来上がった会社にしても色々やりすぎのように感じられますが、この兄・裕司氏の趣味全振り姿勢は自由な社風につながり、後に優秀人材の獲得・つなぎ止めへとつながっていきます。
さて工藤兄弟により操業し始めたハドソンですがSL写真の販売一本ではビジネスが成り立たず、すぐにアマチュア無線機も取り扱うようになります。当時はアマチュア無線機もブーム。裕司氏は凝り性のガジェットオタクだったようですね(ちなみにハドソンのシンボルマークである『ハチ助』は、アマチュア無線のエリア番号(電話番号の市外局番みたいなもの)が『8』だったことが由来)。しかし無線機販売の方も順調にはいかず弟・浩氏が必死になって営業を頑張る中、なんと兄・裕司氏は無線機の次はホビーパソコン(家庭用ゲーム機の前身のようなもの)に興味を持ったらしく、弟を放って本場のホビーパソコンを見に行くと言って渡米してしまいます。ほどなく現地で見つけたという『POLY88』というパソコンを200万円で購入して帰ってくると(お金は無かったそうだがクレジットの月払いで向こう見ずに購入)、今度は店を手伝わず2階の倉庫で一日中『POLY88』でプログラミングに興じていたそうです。このときはさすがに「まずい人に付いてきてしまった」と弟・浩氏は思ったそうですが、ほどなくして事業を拡大し無線機だけでなくパソコンも販売するようになると、これが遂にヒット。いわゆるマイコン族というパソコンオタクたちがたむろする店になっていきます。
このときのお客さんには後の有名人もいました。2名挙げたいと思いますが、一人目は後に任天堂の社長を務めることになる岩田聡氏です。岩田氏の地元は北海道。当時まだ高校生だった岩田氏はまだ自前のパソコンを持っておらずハドソンに出入りしていたと言います。高校卒業後は上京し、今度は東京のパソコンショップ(正確には百貨店の常設パソコンコーナー)に入り浸るようになり、その仲間たちと一緒にハル研究所を立ち上げることになります。岩田氏がもし東京の大学に進学しなければ、ハドソンに入社していた未来もあったのかもしれません。そして当時のハドソンに出入りしていたもう一人の有名人、それは中本信一(なかもとしんいち)氏でした。この方はハドソンの歴史を語るうえで絶対に外せない人物でして、後に副社長も務めることになる「技術のトップ」です。当時の中本氏は北海道大学に通う大学生だったのですが、やがて客ではなくアルバイトとしてハドソンに出入りするようになり、自作のゲームを作成するようになっていきました。中本氏いわく「ハマった」らしく、アルバイトにのめり込んだ果てに大学中退を決意してしまいます。これには弟を中退させた工藤兄弟の兄・裕司氏も「さすがに卒業した方が良い」と説得したそうですが、中本氏は聞く耳を持たず。しかしその後は大成功したわけですから、この選択は間違ってなかったといえます。向こう見ずな人が集まる、自由な雰囲気が当時のハドソンには根付いていました。
当時のパソコンユーザーは、何をするにも自分でプログラミングをしないといけない時分でした。そんな時代にあって、ハドソンは自作のゲームのデータを入れたカセットを売るビジネスを開始します。現代では当たり前のソフトウェア販売のはしりですね。ハドソンはパソコン雑誌に広告を打ち、色んなゲームを数千円で販売したところ全国からの引き合いが一気に入り、急に儲かり始めたと言います。中本さんのようなアルバイトが作ったゲームを原価数百円のカセットにコピーし、それを顧客に直接郵送するという原始的な販売方式。客からは現金書留が直接ハドソンに送られてきたそうで、毎日郵便局員が現金の詰まった袋を担いでハドソンにやってくる様子を面白おかしく「今日もサンタクロースがやってきた」と喜び合っていたそうです。
当時のハドソンはゲーム一本と言うわけではなくあらゆるソフトウェアを販売していたのですが、先行者特権と高い技術力に支えられ、業界最大手の立ち位置を確立していました。そのようなときに、意外な出会いが訪れます。それは、『日本ソフトバンク』(今と社名が異なる)の創業者である孫正義(そんまさよし)氏との出会いでした。孫氏は工藤兄弟の弟・浩氏との初対面でいきなり「僕は天才です」と名乗り、「ソフトウェア流通で世界を制覇したい。だからハドソンと独占契約させてほしい」と申し出たと言います。ハドソンからすると今の販売方式をあえて変える理由などなく、しかも顧客との間にソフトバンクを挟むことでマージンも取られることになるため、最初は及び腰でした。しかしこの孫氏の勢いに馬が合ってしまった工藤兄弟は、孫氏にチャンス(ハードルでもある)として、「一週間後に現金で5000万円を持ってきたら独占契約をしよう」と持ち掛けます。当時1000万円しか資本金を抱えていなかった孫氏でしたが、この課題を見事クリアしてみせてハドソンとの契約が成立。その後は孫氏が販路を広げてwin-winの関係が築かれたらしく、工藤兄弟と孫氏の絆は今なお強固だそうです。
ファミコン初のサードパーティーへ & ハドソン全国キャラバン
順風満帆だったハドソン。1981年当時は、パソコンハードを販売していたシャープとの関係が特に深く、シャープのパソコン向けソフトを多数開発・販売していたそうです。すごいのは、ソフトだけでなく『Hu-BASIC』というプログラミング言語も開発していたこと。持ち前の技術力を発揮して、高い評価を得ていました。そのようにシャープと関係の深かったハドソンでしたが、ここでシャープから任天堂を紹介されます。
当時の任天堂は『ゲーム&ウォッチ』でヒットを飛ばしたものの、類似品が他社から大量に出回ってしまったため、次の一手としてファミコンを開発し始めていた頃でした。任天堂は元々おもちゃ屋ということもあって、ファミコンのターゲットは一貫して子供たち。したがって値段はできる限り安く、不要な機能は可能な限り削ぎ落としながら設計を進めていました。一方で、当時のゲーム機はキーボードが付属し、ユーザーが自由にプログラミングできるホビーパソコンとしての機能が付属しているのが一般的でした。そこで任天堂がどうしたかと言うと、オプション品として『ファミリーベーシック』という商品を開発し、ファミコンでプログラミングしたい人はこれを買ってね、という方式を取りました。しかし任天堂本体はファミコンの開発(シャープからヘッドハンティングした上村さんが中心になって開発)に手いっぱいでファミリーベーシックには手が回らず。懇意のシャープを伝って、ベーシック言語に強いハドソンに仕事の依頼が舞い込んできたのでした。
ハドソンはこの話に乗り、持ち前の高い技術力で手堅くファミリーベーシックを開発しました。開発当時はまだファミコン発売前。ハドソンとしてはシャープとの関係性を優先して引き受けた仕事だったとされています。しかし、ファミコンが1983年に発売されると瞬く間に大ヒット。街中でファミコンに夢中になる子供たちの様子を見た工藤兄弟の弟・浩氏は、これからファミコンの時代が来る、と確信したそうです。そして、これまでゲームに限定せず手広くソフトハウス事業を展開してきたハドソンは、今後リソースをゲーム開発に全振りすることを決断します(今度は兄が弟の言うことを聞きました)。
ハドソンがまずやったことは、ファミコンを独自に解析することでした。ハードとソフトの両面に精通した技術者を多く抱えるハドソンは、なんと任天堂のサポート無しにファミコンソフトの開発環境を自前で作り上げてしまいます。そこまでの下準備をしてから、1983年の暮れにハドソンは任天堂に連絡を取ってファミコンのソフトを作らせてほしいと申し出ます。当時はいわゆるサードパーティーという概念がまだ存在しない時代。今ではハードメーカーと契約してからそのハード向けにソフトを開発するという慣例、ソフトメーカーがライセンス料をハードメーカーに支払うという慣例、こうした商慣行が根付いていますが、ハドソンが任天堂に出向いた時点ではこうした構図は一切白紙。実は今現在に至るまで世界中で強固に保持されている「家庭用ゲーム業界におけるサードパーティー」の構図は、このときの任天堂とハドソンの契約内容が元になったとされています。その意味で、今振り返ると後のゲーム業界にとって大きな転換点となった契約でした。当時海の向こうのアメリカではいわゆるアタリショック(低品質のソフトが粗悪乱造されゲームバブルがはじけた事件)が起こっていましたが、任天堂としてはファミリーベーシックを開発してくれたハドソン商品の品質を信頼していたそうで、交渉はスムーズにまとまったようです。
しかしこの契約、折衝自体はスムーズにいったそうですが、ハドソンにとって大きな壁が存在していました。それが、ROMカセット製造費の半分を前払いするという契約内容。ハドソンはROMカセットを自前で製造する工場を持たず、どこかに委託するしかなかったため、任天堂が製造を受け持つ申し出をしてくれたのは渡りに船でした。しかし、その製造費の半分はソフト販売前に準備する必要に迫られてしまいました。その必要額は4億円(ソースによっては2億円)だったとされています。当時のハドソンにとっては自前で用意できる額ではなく、地元の北海道拓殖銀行に融資に頼ることになります。このとき工藤兄弟の弟・浩氏は融資を勝ち取るのに必死だったらしく、出張から戻った拓銀の幹部を空港で待ち伏せし、自分の車に乗せて拝み倒したというエピソードが残っています。最終的には、問屋から集めた注文書を担保に融資してもらうというイレギュラーな方式で資金問題は解決しました。この融資劇は、かつてハドソンが孫氏に課したハードルと構図がよく似ていました。今度は逆に、任天堂からハードルを課せられたハドソンでしたが、これをなんとか解決したことで信頼を勝ち得たのでした。
開発環境の構築、任天堂との折衝、拓銀からの融資を経て、ようやくハドソンからファミコン用のソフトが発売されました。2本同時に発売されたのですが、特筆すべきは『ロードランナー』の方です。本作は敵を避けながら(あるいは落とし穴にハメながら)金塊を集めてゴールを目指すというアクションパズルゲームで、オリジナルはアメリカのBrøderbund(ブローダーバンド)社が開発したパソコン用ゲームでした。ハドソンはこのゲームは面白い、ファミコンで売ったら絶対売れると思ったらしく、Brøderbund社と交渉してファミコン版移植の許諾を得ます。子供たちが遊びやすいようにキャラとステージを大きくして横スクロールの画面設計に改編し、キャラグラフィックもオリジナル版よりも可愛らしくし、こうした改良の甲斐もあってロードランナーはファミコン参入一本目のソフトにして100万本以上のヒットになりました。開発したのは、先ほど名前を挙げた中本氏。Brøderbund社からソースを提供してもらったため移植自体はスムーズにいったそうでしたが、オリジナルはパソコン用ゲームだったため容量が大きく、これをファミコンで動作できるまでに容量圧縮するのが何より大変だったと言います。ファミコンは技術的な制約が厳しく開発を進めにくいことが多々あったそうで、ハドソンの技術者たちは「ハードの制約を気にせずにコアゲーマーに向けたハイエンドゲームを思いっきり作りたい」という思いを常に抱えていました。そしてそのような思いが、やがてハドソンを自社ハード開発に駆り立てていくことになります(この件は後ほど触れたいと思います)。
さて、ロードランナーで幸先よくファミコンデビューしたハドソンでしたが、その後もファミコン向けにヒット作を連発します。『桃太郎電鉄』のもとになったRPG『桃太郎伝説』や、『ボンバーマン』など今でも続く有名IPが生まれたのもこの頃でしたし、懇意にしていたコロコロコミックとの関係の中で開発された『忍者ハットリくん』と『ドラえもん』はキャラゲーながらクオリティが高く(※ただしかなりの高難易度)いずれもミリオンセラーとなりました。しかしハドソンを語るうえで最も重要なのは『高橋名人の冒険島』(~のぼうけんじま)、ひいては高橋名人の存在でしょう。
高橋名人とは、ハドソンの広報担当社員である高橋利幸(たかはしとしゆき)氏が子供たちの集まるゲームイベントなどで名乗っている、言ってみれば芸名です。2024年現在ではハドソン所属ではないフリーの高橋名人として今なお活躍されていますが、当時の高橋名人はまさに子供たちのヒーローでした。元々ゲームがすごく上手かったわけではなかったという高橋名人は、子供たちにとっての憧れであり続けるために裏でこっそりゲームの練習を欠かさなかったと言います。名人の得意技はなんといっても『16連射』。『スターフォース』といったシューティングゲームなどで披露されたこの技は、1秒間に16回もボタンを連打して高速で弾を打ち出すというもの。当時のハドソンは子供たちの夏休みの時期に合わせて『ハドソン全国キャラバン』というゲーム大会を日本全国で展開していたのですが、高橋名人はそうしたイベントで生の16連射を披露して会場を沸かせていたそうです。先ほど述べた『高橋名人の冒険島』はこの頃の高橋名人人気にあやかって開発された、高橋名人が主人公のアクションゲームで、ミリオンセラータイトルになりました。
この頃のハドソンはまさに絶好調。ハドソン全国キャラバンは10年以上続きピーク時には10万人の動員を達成しましたし、いち社員に過ぎなかった高橋名人を広告塔に抜擢してハドソンの代表コンテンツにまで育てあげました。いずれもハドソンの自由な社風が良い方向に作用して達成された成果でした。その社風を根付かせたのはやはり創業者である工藤兄弟の兄・裕司氏。実は高橋名人を採用したのも裕司氏本人だったようで、元々青果店に勤めていた高橋氏を通りがかりに見ては「大きな声で客寄せしているなぁ」と思っていたらしく、その高橋氏がハドソンの面接に来るや「あっ君は」となって即採用になったといいます。ハドソンの中央研究所には裕司氏の会長室があるのですが、そこから建屋をグルッと一周するミニ機関車が走っていたり、会議室にはニセコ駅を走るC-62の模型が置かれていたり、ハドソンが大企業になってからも裕司会長のやりたい放題は創業当時から変わっていなかったようです。しかしトップが自由であれば、社風も自由になるというもの。高橋名人を始め、当時ハドソンに在籍していた社員はインタビューなどで口々に当時の自由な社風を懐かしがっています。
PCエンジンの成功 ~ その後の低迷 ~ ハドソン消滅
社風が自由であるということは、チャレンジをしやすいということ。時代は少し遡り、ロードランナーでファミコンの容量に悩まされた中本氏を始めとする技術者たちは、自分たちのスキルを思いっきりぶつけられる開発環境を欲しがりました。そしてファミコン用のチップをもっと高性能なものに差し替えたいという話になったのですが、その後その話がどんどん大きくなっていき、最終的にはNECホームエレクトロニクスとの共同開発によりゲーム機を作るプロジェクトになっていきました。そうして生まれたのが、『PCエンジン』というゲーム機。ゲーム史ではNECが製造・販売したゲーム機であると説明されることが多いのでご存じない方もいるかもしれませんが、その開発にはハドソンがガッツリ関わっており、本体リリース後はファーストパーティの立ち位置でソフトを供給し続けました。このPCエンジンはいわゆる第四世代のハードとして分類されており、初期はファミコンやセガ・マークⅢといった第三世代のハードと、後期はスーパーファミコンやメガドライブといった第四世代のライバル機と競いました。そうした競争の中でPCエンジンは1000万台の売上げを達成し、一定の成功を収めました。
PCエンジンの特徴と言えば、何といっても『CD-ROM²(シーディーロムロム)』という拡張機器でしょう。発売当初はカートリッジを挿すファミコンと同様の方式のゲームハードとしてリリースされたのですが、あらかじめ本体に仕込まれていた拡張端子と接続可能な周辺機器としてCD-ROM²が1年後に発売されます。このCD-ROM²というのは家庭用ゲーム機初のCD-ROM形式のゲームソフトを遊ぶための機器でして、拡張後のPCエンジンはカートリッジ・CD-ROMの両種類のソフトを受け付けるハイブリッドゲーム機に転身するわけです。
このCD-ROMソフトは当時のゲームファンに絶大な驚きを与えました。CD-ROM²普及のためのキラーソフト『天外魔境シリーズ』はCD-ROM²の性能をいかんなく発揮した超大作RPGでして、ゲーム内でアニメが流れる、声優がしゃべる、実録したオーケストラの音楽(しかも坂本龍一さんや久石譲(ひさいしじょう)さんの音楽)が流れる、といったそれまでのカートリッジ式のゲームソフトでは容量都合で絶対に不可能だった要素がこれでもかと盛り込まれました。特に評価の高い『天外魔境II 卍MARU(てんがいまきょうつー まんじまる)』(CD-ROM²の後継SUPER CD-ROM²向けソフトとしてリリース)は、ハード保有者の2人に1人が購入した(※正確な情報は見つけられず)とされており、キラーソフトとしての役割を十二分に果たしました。しかしながらCD-ROM²の課題は何といっても値段。PCエンジン本体が25000円、CD-ROM²が60000円、さらにソフト代までかかるとあって超高級品でした。当時のRPGのクリア時間が大体20時間ほどだったなか、天外魔境IIは80時間ほどの大ボリュームを誇りましたが、このようなゲーム設計になったのは高いハードに投資してくれたユーザーへの見返りだったと開発者が語っています。
「子供向け・低価格」をコンセプトとしたファミコン・スーファミに対し、対極である「コアゲーマー向け・高価格」をコンセプトとしたPCエンジンはパイを食い合うことは無く、PCエンジンリリーズ後もハドソンと任天堂の関係は良好。ハドソンは両ハードに向けてソフトを開発していました。しかし、やはりハードメーカーとして商業的に成功したのは任天堂の方でして、ハドソンはPCエンジンの後継機『PC-FX』で大失敗を犯してしまいます。同じ第五世代のゲーム機であるプレイステーションやNINTENDO 64などは3D描写に優れたハード設計を売りとしており、当時のゲーマーは3Dゲームに夢中になっていました。そんな中にあってPC-FXは従来延長線上の2D描写重視・3D描写軽視の戦略を取ってしまい全くと言っていいほど売れず、ゲームハード史に残る失敗機となってしまいました。
ハドソンにとって大きな打撃となったのはPC-FXにとどまりません。1997年にはハドソンにとってのメインバンクであった北海道拓殖銀行が経営破綻。なんとハドソン、サブバンクを構えておらず、ここから資金繰りが一気に苦しくなっていきます。サブバンクを構えなかった理由は明らかにされていませんが、もしかするとロードランナー発売時に拓銀幹部へ融資を拝み倒した際に、拓銀以外の銀行とは契約しないとか、そうした口約束もあったのかもしれません。あるいはそこまでの約束は無かったにしても、ハドソンにとって拓銀が大恩人であるというのはお互いが認識するところ。大なり小なりしがらみがあったのだろうと推察されます。
このように振り返ってみると、ハドソンの飛躍とその後の転落は切っても切れない関係にあるように思われます。ファミコン初のサードパーティーとなって大成功した裏には拓銀との関係があったわけですが、後にその関係が足かせになってしまいました。また、ハドソンの自由な社風と技術者気質はPCエンジンを生み出しましたが、その後継であるPC-FXは会社の大きな負債になってしまいました。90年代の半ばまではハドソンの社風が良い方向に作用していたのに、それ以降急に噛み合わなくなっていってしまいます。
そして、ハドソンの精神である自由な社風も徐々に失われていってしまいます。この原因は「会社が小さい間は自由な雰囲気でも回っていたが、会社が大きくなるにつれてガバナンスが効かないようになってしまった」というよくある話には違いないのですが、ゲーム業界ならではの難しさも影響したと思われます。すなわち、技術の進歩とともにゲーム開発費が高騰化したことにより、それまで数打ちゃ当たるで失敗作込みの短サイクル開発を回してきたビジネス構造が、一本こけたら会社が傾く高リスク高リターンのビジネス構造に変化していき、ハドソンとしても否が応でも保守的にならざるを得なくなった、というのが実際に起こっていたことなのだろうと推察されます。そして皮肉なことに、現在まで続くこの青天井のゲーム開発費高騰の構図、その門戸を開いてしまったのは他ならぬハドソンのCD-ROM²でした。ハドソンがやらなくても、必ずどこかのメーカーが業界のトレンドをカートリッジからCD-ROMへ移行させたでしょうから、どちらにしても避けられない事態だったとは思われますが、それにしても皮肉な話です。まとめると、ハドソンの転落は「時代にマッチしなくなってしまったから」という、なんとも悲しい一言に集約されてしまいます。
この社風の変化により、多くのクリエイターがハドソンを退社していってしまいます。例えば現在スクウェア・エニックスで活躍されている吉田直樹(よしだなおき)氏(FF14・16を開発)は北海道出身なのですが、地元で活躍しているハドソンに憧れてハドソンコンピュータデザイナーズスクール(ハドソンが経営していたゲームクリエイター養成専門学校|後にハドソンのTCGを扱う子会社に転身)を卒業してハドソンに入社したという経歴の持ち主です。吉田氏の目には入社時点で既にハドソンの雰囲気は変わりつつあるように映っていたようで、「自分がハドソンを変える、立て直す」とまで意気込んでいたらしいのですが、結局は会社の方針に納得できず退職してしまいます。退職時期はちょうど拓銀が経営破綻した頃でした。他に、後にドラクエⅩのプロデューサーを務めることになる青山公士(あおやまこうじ)氏といったクリエイターもこの頃に立て続けに退職しており、ハドソンの開発力は低下していってしまいました。
そうした中で気を吐いたタイトルが、1998年に初代がリリースされた『マリオパーティーシリーズ』。このタイトル、実は開発はハドソンが請け負っていました。また2000年頃からは携帯電話向けゲームの開発にも事業を広げ、何とか経営を立て直そうと四苦八苦するのですが、事態の好転には至らず。とうとう2004年には工藤兄弟が経営から手を引き、新社長が就任するという区切りの体制が敷かれることになりました。そのわずか1年後にはハドソンはコナミの子会社化になってしまい(2000年頃からコナミが資本介入していた)、その更に数年後には先述の新社長がマリオパーティーチームを引き連れて別会社へ移籍してしまいます。この頃にはもう、かつてのハドソンは見る影もなくなってしまいます。2011年にコナミの完全子会社になってしまうと、今度はとうとう高橋名人まで退社。その後しばらくはコナミ内のいちブランドとしてハドソンの名前はギリギリ存続していたのですが、2014年の元日にはハドソンブランドまで消滅。このようにしてハドソンは1973年の創業から丸40年を経て、その歴史に幕を閉じました。(コナミ介入からの歴史は『コナミの歴史』の方で詳しくやれればと思っています。提携当初はコナミ・ハドソン前向きなコメントを残しており一時的に経営が改善されるのですが、2004年から再び経営が傾いていきました。)
しかしハドソンのゲームは残り続けます。PCエンジンの名作は『PCエンジンmini』で遊べますし、ボンバーマンや桃太郎電鉄といった代表IPは今も生き続けています。特に2020年発売の『桃太郎電鉄 ~昭和 平成 令和も定番!~』と、2023年発売の『桃太郎電鉄ワールド ~地球は希望でまわってる!~』は、それぞれ400万本・100万本のセールスを記録しました。(コナミは一時期、家庭用ゲームを軽視していた時期がありゲーマーからの評判は高くないのですが、昨今はその方針が見直されつつあります。)今後はコナミが抱えるハドソンの他IPリブートにも期待していきたいと思います(もっとも桃鉄はさくまあきら氏が権利を保有しているはずですが)。ちなみに工藤兄弟の兄・裕司氏はハドソンをリタイヤしてからも趣味に生きているらしく、三遊亭あほまろ(三代目三遊亭圓歌の弟子だが落語家ではない)として写真家・古銭研究家の活動をされているそうです(古銭は古くからの趣味でハドソン中央研究所には会長私物の古銭を並べた博物館が常設されていた)。ハドソンが完全消滅して早10年。散り散りになってしまったゲームクリエイターたちは、今も活躍されており、インタビューではキャリア初期のハドソン時代を懐かしく振り返っています。社員にとってもファンにとっても、ハドソンは特別な会社でした。
参考文献
興味ある方は折りたたみを展開ください。
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