【完全解説】ゲーム史を塗り替えたAcitivisionの光と影の50年史 1983~2023

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【ゲーム会社史】そのゲというyoutubeチャンネル様に、【完全解説】ゲーム史を塗り替えたAcitivisionの光と影の50年史 1983~2023という動画の台本を提供しました。

この記事は、その台本の ( 初稿の ) ベタ貼り記事です。文字情報でザザっと追いたい方用です。

実際の動画では投稿主様の方で一部内容修正されているので、動画にはない情報も含みます。補完関係になっているので、流し読みでも構わないのでご覧いただけたらと思います。

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はじまり

ゲームファンにとってはお馴染みのCall of Dutyシリーズ。毎年新作が発表されるハイペース振りもさることながら、そのどれもが1000万本級の売上を誇ると言いますから、まさに並ぶ存在のいない化け物タイトルです。シリーズ累計の売上本数は5億本を突破したらしく、これはマリオシリーズに次ぐ数字とされています。この超特大IPを抱えるのは、アメリカのゲーム会社Activision。実はこの会社、ゲーム会社としてはかなり歴史が長く、設立されてからもうすぐ半世紀を迎えます。たった4人の技術者によって設立されたこの会社は、どのようにして世界的大企業にまで成長していったのか。この動画ではActivisionの歴史を徹底解説いたします。

Activisionは1979年にDavid Crane氏ら4名のゲームクリエイターによって設立されました。この4名の共同設立者はいずれもAtari社の元社員で、待遇に不満を持って独立してActivisionを設立しました。まずはこの経緯を語るところから始めたいと思います。

Atari社は今では無くなってしまったゲーム会社ですが、ゲーム史を語るうえで避けて通れない重要な会社です。同社が1972年にリリースした『PONG(ポン)』というアーケードゲームは、世界で初めて商業的な成功を収めた、歴史的な作品として知られています。PONGは電子版のエアホッケーのような非常に簡素なゲームだったのですが、黎明期のゲーム市場においては好意的に受け止められてヒットになりました。AtariはこのPONGを家でも遊べるようにと、今度は『HOME-PONG』というゲーム機を続けざまにリリースし、こちらもヒットさせました。このPONGブームによって、Atariは一躍ゲーム市場をリードするトップメーカーとして知られるようになりました。

当時は技術の進歩が目覚ましく、PONGしか遊べなかったHOME-PONGが発売されたわずか2年後の1977年には、ロムカートリッジによって遊べるゲームを切り替えられる『Atari 2600』というゲームハードがリリースされました。後にActivisionを創業することになるDavid Crane氏がAtariに入社したのはちょうどこの頃だったそうで、氏はAtari 2600向けソフト開発担当としてキャリアをスタートさせました。当時はサードパーティーという概念がまだ存在しなかった時代でして、他社からのソフト供給は無く、各社自社ハード向けのソフトを自社製作する必要がありました。すなわち良質なソフトを産み出せる社員の価値が、現代以上に高かったと言えます。Atariとしてもその認識はあったようで、人材流出を恐れてゲームクリエイターの個人名をクレジットさせない、というクローズ戦略を取っていました。しかし社員からすると、自身の作品に自分の名前がクレジットされないというのは不満ですよね。アメとムチの考えで、クレジットさせない代わりに高賃金で報いてくれれば納得もできそうですが、Atariは成果に対するボーナス支払いも渋かったと言います。Crane氏ら社員は不満を貯め込んでいました。

そうした折に、過去に販売したゲームの売上がまとめられたメモがAtari社内で公開されました。発信元はマーケティング部門。今後のゲーム開発に役立ててもらうために公開されたのですが、これが完全に裏目に出てしまいます。Crane氏はこのメモを見て、自身が1人で開発したゲームが2000万ドルもの大金を売上げていたことを初めて知り、不満が爆発。これだけ会社に貢献しているのに作品に名前をクレジットしてもらえない、年収もたった2万ドルとあっては、納得できないのも頷けます。同じく待遇に不満を持った他3名の社員とともに社長へ直談判しにいきましたが、結局待遇が改善することはありませんでした。それどころかクリエイター軽視の発言まで言い放たれたそうで、喧嘩別れの形でCrane氏ら4名はAtariを退社しました。

退社直後のCrane氏らは「自分たちの手で会社を作る!」というモチベーションに満ちていましたが、具体的にどう動けばよいかは定まっていませんでした。なにせ家庭用ゲームソフトを作りたければ、まず自社製ハードをこしらえるところからスタートしなければならない、というのが当時の当たり前。しかし、それを実現するには莫大な資金調達が必要で、リスクが大きい。できることなら、自身がノウハウを持つAtari 2600向けソフトで商売したい、とCrane氏らは考えました。この発想はまさに、他社ハード向けのソフトを開発・販売するという、現代で言うところのサードパーティーの概念です。このアイデアを携えて会社設立に関して弁護士に相談したところ、同じくソフトウェア事業に参入しようと資金調達活動中だったJim Levy氏を紹介されました。意気投合したCrane氏らとLevy氏は、互いに協力して100万ドルの資金調達を勝ち取り、1979年にLevy氏がCEOに立つ形でActivisionは設立されました。以降Activisionは半世紀にもわたる歴史を歩んでいくのですが、CEOを務めたのはわずか3人のみ。Levy氏は、その初代CEOになります。

ちなみにActivisionという社名は、アルファベット順でAtariよりも若くなるように意図して名付けられたと噂されています。実際この話がどこまで本当かは不明ですが、ここまで述べてきた通りActivisionとAtariの間には浅からぬ因縁がありますので、本当にそういう意図もあったのかもしれません。

スタートダッシュ~CEO交代

Activisionは、設立翌年の1980年にAtariから著作権と特許の侵害を理由に提訴されてしまいます。Atariとしては、自社を退社してActivisionを設立したCrane氏らの動きは看過できないものだったんですね。しかしCrane氏らはAtariが訴訟を起こしてくることは織り込み済みだったようで、会社設立前から弁護士に「自分たちのビジネスが法的に問題ないものかどうか」を相談していました。会社設立資金の100万ドルの一部は訴訟対応費として当初から予算建てられていたらしく、このような準備の良さもあって裁判はActivision有利に進みました。最終的にはAtariの方から和解が申し込まれることとなり、この一連の抗争は幕を閉じました。

この訴訟の行方はゲーム業界にとっては注目の的でした。それまで他社ハード向けのソフトが開発された前例が無い中、一定のロイヤリティさえ支払えば問題無いという法的見解がなされたことで、Activision以外の会社も続々とAtari 2600向けソフト開発事業に参入していきました。Activisionと和解した際にAtariがこの流れをどこまで予見していたかは不明ですが、ともあれAtari 2600が大いに盛り上がったことでAtariとしても利益を享受することとなりました。中でも『Pitfall!』というActivisionが開発した作品は、Atari 2600の代表的なソフトとして知られています。本作は画面右に向かってひたすら走っていって、向かってくるタルや落とし穴をジャンプで避けながら宝を収集していくゲームで、2Dマリオを代表とするプラットフォーマーというジャンルを確立させた作品(の一つ)とされています。歴史的に意義深い作品であると同時に、当時の人気も絶大だったそうで、400万本以上を売上げました。

このように良質なゲームが産まれた一方で、深刻な事態も同時進行していました。Activisionの成功を見て参入してきた新興ゲーム会社の多くは、ゲーム市場の将来性に目がくらみ考えなしに参入を決めたため、ソフト開発力が足りていませんでした。にもかかわらず大々的に広告を打つものですから、粗悪品レベルのクソゲーをつかまされる消費者が全米で続出。ゲームという娯楽自体に失望してしまった消費者たちの購買意欲は一気に冷え込み、それまで急速に成長してきていたゲーム市場のバブルが弾けてしまいました。いわゆる『アタリショック』として知られるこの一連の騒動は、ゲーム市場に暗い影を落とし、有象無象のゲーム会社は次々に倒産。Activisionは倒産までは至らなかったものの、この騒動を機に多くの社員が退社してしまい、Crane氏と共にAtariを退社してActivisionを設立した他3名のエンジニアもこの時期にActivisionを去ってしまいました。ちなみに後にEAのCEOを務めることになるLarry Probst氏も当時はActivisionに在籍していたのですが、やはりこのアタリショックを機に退社してしまっています。

優秀人材の流出が続いてしまい、大きなダメージを受けたActivision。残った設立メンバーはCrane氏とCEOのLevy氏のみとなってしまいました。苦しい時期でしたが、なんとか会社を立て直すべく、今後はAtari 2600向けではなくPC向けのゲームソフト開発に注力していくという新しい会社方針が決まりました。そしてこの新しい戦略を加速させるために、CEOのLevy氏は『Infocom』というゲーム会社の買収を決めます。

Infocomは『Zork』シリーズといった良質なテキストアドベンチャーゲームを輩出していた会社。当時のInfocomはActivisionと同じくちょうど経営に苦戦していた折でしたが、Levy氏(Infocomのファンだったそう)は「苦しい境遇の似た会社同士でシナジーを起こす!」と意気込んで買収を主導。Infocom側の受け止めもポジティブで、この経営統合は成功の雰囲気が漂っていました。しかし、なんと買収からわずか半年後に、Levy氏はActivision取締役会からCEOを罷免されてしまいます。経営難の責任を取らされた形でしたが、Infocom買収による成果を刈取る前に会社を去ることになってしまったLevy氏は無念だったことと思います。しかしそれ以上に悲惨だったのは、元Infocomの社員たちでした。Levy氏に代わってActivisionの新CEOに就任したBruce Davis氏はInfocom買収に対して否定的だった反Levy派だったそうで、CEO交代を機に旧Infocomチームは非常に押さえつけられた立場になってしまいました。彼らにとって何より重要だった「ゲーム開発現場における独立性の担保」というLevy氏との確約も、Davis新体制に代わった途端に反故にされたと言います。こうしたDavis新CEOの強権振りは元々Activisionに在籍していたスタッフにとっても評判が悪く、Activision設立メンバーの最後の一人であるCrane氏も、この新体制を受け入れられずに退職してしまいます。

CEO再交代による低迷脱却~拡大期

Atari社からの訴訟という苦難からスタートしたActivision。訴訟については無事乗り切れたものの、その後のアタリショックと経営刷新を経て設立メンバーは全員退社。この時点で、Activisionの社風は設立当初から大きく変わってしまっていました。そこに輪をかけるように、新CEO・Davis氏は社名を変更することを決断します。設立当初からビデオゲーム開発・販売一本できていたActivisionでしたが、Davis氏はビデオゲーム以外のソフトウェアも取り扱う会社への転身を打ち出し、社名を『Mediagenic(メディアジェニック)』に変更しました。Activisionという名前自体はブランド名として残ったものの、この頃にはもう開発チームが縮小されてしまっていたらしく、自社開発のゲーム本数は目に見えて減っていきました。代わりに他社開発ゲームのパブリッシング案件が増えていき、Crane氏らが築き上げてきたゲームクリエイター気質の文化は衰退。Mediagenicのゲーム事業は縮小の一途を辿っていきました(先述の旧Infocomチームもこの頃解散)。代わりにゲーム以外の事業が上手くいっていたら救いようもあるのですが、そちらも上手くはいかず。Davis氏体制のMediagenicはジリジリと経営が厳しくなっていきました。

そんな折に、MediagenicはBobby Kotickという人物に突如として買収されます。Infocom買収後に弱っていったMediagenicが、今度は買収される側に回るというのは何とも皮肉な構図です。この買収はInfocomの時のような事前合意のない、いわゆる敵対的買収でした。

Mediagenic買収に打って出たKotick氏は1963年生まれ。幼い頃から経営への関心が強く、大学在学中にソフトウェア会社を起業したKotick氏は、なんとあのSteve Jobs氏とも関わりがあったと言います。Jobs氏の助言にしたがって大学を中退し会社経営に集中しだすと、徐々に資金を貯め込んでいき、やがて「ここが人生の大勝負」と言わんばかりに経営危機に瀕しているMediagenicを50万ドルで買収します。しかしこの値段は都会に一軒家を買うようなものだったので、かつて一世を風靡したActivisionの価値としては破格でした。この買収劇は1991年の出来事だったのですが、なんとKotick氏、当時まだ20代の若者だったというから驚きです。そのままMediagenicのCEOに就任すると、以降30年以上にわたってCEOを譲ることはありませんでした。Kotick氏のActivision CEOとしての評価に関しては賛否が分かれており、否定派の意見についてはこの後のActivisionの歴史を語る中で説明していきます。賛成の意見としては、そもそもKotick氏がこのときMediagenicを買収しなければその後のActivision自体存在し得なかったという論調が多く、氏の功罪については大いに議論されています。

さて、Kotick氏がMediagenicを買収しようと決意したのは、『Activision』というブランドが持つ価値に目を付けたからでした。元々Pitfall!などのActivisionタイトルに親しんでいたKotick氏は、ゲームファンの間で形成されていた「Activisionのゲームは品質が高い」という信頼を肌で理解していました。そしてそうした顧客からの信頼は一朝一夕でできあがるものではないことも理解しており、だからこそActivisionというブランド価値は実はとてつもなく大きいということを見抜いていました。

Kotick氏にとっても、ここまで経営が傾いてしまった会社を再生させられるかは賭けだったようですが、買収直後から早速大胆な改革に乗り出しました。まず断行したのが非情とも言える大規模な人員整理。会社を残すため・Activisionというブランドを守るために、150人以上いた社員をたった8人にまで減らしてしまいます。Kotick氏にとって、この会社の価値は、人材ではなくActivisionというブランドにあったんですね。会社名はMediagenicからActivisionにすぐに戻され、ここから会社の再建が始まっていきました。1994年にはInfocomが残した傑作テキストアドベンチャー・Zorkシリーズのリブート『Return to Zork』を市場に投下し、100万本以上の売上を記録しました。このヒットにより会社は危機的状況を脱し、ここからKotick新体制の快進撃が始まっていきます。

Return to Zorkでの利益は開発力強化に回されたのか、数年後にはメカ操作FPS『Heavy Gear』や戦車操作FPS『Battlezone』といった自社開発タイトルが立て続けにヒット。後にActivisionは次々とゲーム開発会社を買収していくのですが、その資金はこれらのヒット作で賄ったと言われています。また、この頃のActivisionは日本の会社とも縁があって、アクワイヤが開発した『天誅』シリーズのパブリッシングも手掛けています。実はこのときの仕事の縁が、後に『SEKIRO: SHADOWS DIE TWICE』のパブリッシングにつながっていったと言われています。SEKIROは2019年のGOTYを多数受賞した名作ですが、フロムソフトウェア開発×Activisionパブリッシングの体制でリリースされました。洋ゲーの印象が強いActivisionですが、意外にも和ゲーともつながりを持っています。

さて、昨今のActivisionの印象と言えば、あらゆるゲームタイトルを抱えるマンモス級のパブリッシャーというイメージが強いかと思います。そのイメージは、1990年代後半から約10年間にわたって集中的に実施された、数々の会社買収によって形づくられていきました。当時のActivisionを支えたスタジオを2つほど簡単に紹介したいと思います。

まずは『Neversoft Entertainment』というスタジオについて。1999年にActivisionに買収された同社は、『Tony Hawk’s Pro Skater』というスケートボード題材のゲームシリーズで2000年前後の全米を席巻したゲームスタジオです。Tony Hawkといった実在のスケートボーダーたちを操作して、競技用のボードパークのみならず学校や街中でトリックを決めまくり、お金を稼いで次のステージをアンロックしていくというゲームでした。このシリーズの初期作品はクオリティ・評価が特に高く、アメリカのスケートボード文化にも大きな影響を与えたとされています(私はGBAのTHPS2をずっと遊んでいました)。

続いて『RedOctane』という会社について。こちらは元々家庭用にダンスダンスレボリューションのダンスパッドなどを開発していた会社だったそうですが、ギター型のコントローラーを用いた音ゲーの『Guitar Hero』というシリーズも手掛けるようになり、これが全米で大ヒット。楽器を模した特殊コントローラーを用いた音ゲーのヒットというと、日本の『太鼓の達人』と似た流れを感じさせます。Guitar Heroは2000年代中盤において爆発的な売り上げを誇りました。

今挙げたTony Hawk’s Pro SkaterとGuitar Heroは、いずれも当時のActivisionにとってまぎれもない看板タイトルでした。しかしこれらのIPは維持することができず(※ THPSは2020年に1・2リメイクが久しぶりにヒット)、NeversoftもRedOctaneも今はもう無くなってしまっています。代わりにActivisionが注力したIPは『Call of Duty』でした。

Call of Duty誕生~躍進

Call of Dutyは戦場の兵士を主人公に据えたFPSシリーズで、映画のような豪勢な演出がウリのキャンペーンモード(ソロプレイのストーリーモード)と、圧倒的なプレイヤー人口を誇るマルチモードの2モードが遊べる大ヒットシリーズです。EAを退社した2人のゲームクリエイターが設立した『Infinite Ward』という会社が作りました。同社は設立当初よりActivisionによる支援を受けており、初代CoDが2003年に発売された頃には既にActivisionの子会社となっていました。

このCoDはActivisionがライバル視していたEAのFPSタイトル『Medal of Honor』の競合タイトルとして開発されたのですが、見事ゲームのクオリティで同作を上回り、売上でも圧倒しました。Activisionはこれに味を占め、毎年CoDを発売しようと画策します。そこで声がかかったのが、2001年に買収していた『Treyarch(トライアーク)』という会社。Treyarchにはこれまでスパイダーマンのゲームをメインで作らせており、売上・評価ともに順調でActivisionに貢献していたタイトルでしたが、初代CoDのヒットを受けて今後はCoDシリーズの開発に専念する方針が定まりました。その後TreyarchはCoDのBlack Opsというシリーズを一貫して手掛けています。極秘任務に従事する主人公たちを描いたBlack OpsはCoDの中でも人気のシリーズとして知られています。

CoDを語るうえでは『Sledgehammer Games』という会社も外せません。同社もまたEAを退社したクリエイターが2009年に設立した会社でして、その最初の作品としてCoDのスピンオフを制作したいと考えていました。Activisionにその旨を相談したところ、Kotick氏は大胆にもいきなり「子会社にするからCoD本編を制作する3つ目のスタジオになってくれないか」と提案。Sledgehammer側もこれを了承したことで、Infinite Ward・Treyarch・Sledgehammerの3社がそれぞれ3年の開発期間でCoD新作を開発し、Activisionは毎年上がってくるそれらの新作を順にリリースして回すという異例のハイサイクル体制が実現しました。その後はCoD自体がブランド化し、毎年リリースされる新作に対する評価は作品によって高い・低いあるものの、安定して毎年1000万本以上売れるシリーズに仕上がりました。2014年にはTony Hawk’sシリーズを手掛けていた先述のNeversoft EntertainmentもInfinite Wardに合流するなど、継続的に開発体制の強化も図られています。

このように書くと、CoDはイケイケドンドンでずっと来たように見えますが、実はいくつか深刻な問題も生じていました。まずは異常な長時間労働。Sledgehammer GamesがCoD開発ラインに加入するまでは、Infinite Ward・Treyarchの2社が隔年で新作を開発していた時期がありました。CoDほどの規模のタイトルをたった2年で開発するというのは普通ありえないことで、その厳しい納期のしわ寄せは、いわゆる『クランチ』となって現れました。クランチとは、ゲーム業界における新作発売前の追込み・超長時間労働を指す用語なのですが、CoD開発現場においてはこのクランチが常態化してしまっていました。Sledgehammerが加わることで事態の改善が期待されましたが、結局は根本解決にまでは至れず。これはCoDに限らずゲーム業界全体がはらむ課題ですが、技術の進歩とともに要求される開発リソースが青天井に膨れ上がってしまっており、昨今のAAAタイトルは異常なハイリスク・ハイリターンのビジネスモデルになってしまっています。その中にあってCoDブランドたるクオリティを保つには、Sledgehammerが加わって納期3年になっても開発期間は全く足りず、クランチは今なお続いているようです。この件に関しては従業員からの不満のみならずユーザーからの不満も大きく、開発期間が足りず低クオリティに仕上がってしまったハズレCoDにファンは幻滅しています。開発体制が破綻しているのに頑なに毎年の新作リリースをやめないActivision幹部、ひいてはKotick氏は常に批判にさらされています。

CoDのもう一つの深刻な問題は、CoDの生みの親であり、Infinite Wardを設立したVince Zampella・Jason West両氏の追い出し事件です。EAを退社した2人はEAに対抗すべくActivision傘下でCoDを作り上げたわけですが、先述のクランチ、そしてCoDの莫大な売上げに対する報酬の少なさを不満に思い、Activisionに反抗します。その後裁判沙汰にもなり、紆余曲折を経て2人は結局Infinite Wardを退社。その後『Respawn Entertainment』を設立し、かの『Apex Legends』という化物タイトルを産み出すこととなります(この経緯についてはRespawn Entertainmentの歴史の動画で詳しく解説しています)。ActivisionとZampella・West両氏の裁判は既に決着しており和解が成立していますが、この件はなんとも後味が悪かった事件としてCoD界では記憶されています。元々Atariの待遇に不満を持ったクリエイターが独立して設立されたActivisionであるのに、今度は自身が従業員を押さえつけて独立されてしまうというのはなんとも皮肉な話です。設立メンバーが去り、会社が大きくなり、設立当初の理念は完全に失われてしまっているように見えます。

Blizzard合併~Microsoftによる買収

さて、このようにCoDシリーズが大きく成長していった時期と並行して、Kotick氏は大きな決断をしようとしていました。それは、『Blizzard Entertainment』を抱える『Vivendi Games』との合併。2006年当時のActivisionはTony Hawk’s・Guitar Hero・Call of Dutyの三本柱を抱えていましたが、Kotick氏は盤石の経営だとは思っていませんでした。特にライブサービス型のタイトル不足が弱点だと感じていたようで、『World of Warcraft』などを抱えるBlizzard、ひいてはその親会社であるVivendiの買収を画策します。当初は合併後の株式保有率など条件面で折り合わず時間がかかりましたが、結局2008年に合併は実現し、『Activision Blizzard』が誕生しました。Vivendiの元オーナーが過半数の株式を握る形ではありましたが、合併後もCEOはKotick氏が務める体制で決着。この時点で会社の規模はライバルであるEAを上回り、世界最大のゲームパブリッシャーとなりました。

合併後は本体のActivision Blizzardにぶら下がる形で、Activision PublishingとBlizzard Entertainmentがそれぞれ子会社として事業を展開。Blizzardの方は合併後も『Hearthstone』や『Overwatch』といったヒット作をリリースしていますが、こちらに関してはBlizzard Entertainmentの歴史の動画で語っていますので省略します。Activisionの方はパブリッシング事業にますます力を入れていき、2017年にはクラッシュ・バンディクーの初期3部作リメイクを、2020年には19年ぶりの最新ナンバリング作である4をリリースしました。クラッシュの権利は元々『Universal Interactive』と言う会社が保持していたのですが、同社がVivendiと合併し、今度はそのVivendiがActivisionと合併したことで、Activisionにその権利が転がり込んできたんですね。長らく休止状態にあった人気シリーズを復活させたのは、昨今のActivisionにしては珍しくファンの期待に応えた判断でした。しかし次作の5は開発中止が報じられており、やはり完全にはユーザーに寄り添い切れていない印象です。

このようにユーザーから不満の声が上がることの多い昨今のActivision。しかしそれ以上に不満を抱えていたのは従業員の方でした。2021年には女性従業員に対するセクハラ問題・待遇の不平等問題が明らかになり、カリフォルニア州の当局より訴えられるという大問題が発生。本件はBlizzard側で起こっていた問題だったとされていますが、Kotick氏には一連の疑惑を知りながら事実を黙認・揉み消していたという疑惑がかかり、30年来のCEO職からの辞任説まで取りざたされる事態となりました。2年越しの裁判ではKotick氏に向けられた疑惑については証拠が見つからず、氏個人に向けられた汚名は返上となりましたが、会社にかけられた女性へのハラスメント問題については5500万ドル(79億円)もの大金で和解という決着となりました。

この件に関してはユーザーからの心象も最悪で、Activision Blizzard(AB)に対する企業イメージは一気に転落。株価も一気に33%ほど下落してしまいました。一般的に、こうしたスキャンダルによる株価下落が起こると他社からの買収リスクが高まるとされていますが、ABほどの大きな会社がまさか買収されるとはほとんど誰も予想できていませんでした。しかしその「さすがにない」を、Microsoftが覆しました。ABが訴訟された翌年の2022年の初めにMicrosoftはABの買収を発表。業界の巨人が巨人を買収するとあって、独占禁止法への抵触を各国当局が主張し、これまた裁判沙汰となりました。しかし当局側の訴えはことごとく退けられていき、翌年の2023年末には大勢が決しABのMicrosoft傘下入りが決定しました。同時にKotick氏のCEO退任も決まり、30年以上にもわたるKotick体制は終わりを迎えました。

こうして振り返ってみるとActivisionは何度も裁判を戦っています。最初はAtariという大企業に立ち向かい、ゲーム業界にサードパーティーの概念をもたらしました。しかしその後はCoDを作り上げた功労者であるはずのZampella・West両氏を裁判で追い出し、まるでAtariのような裁判を起こします。その果て今度は従業員に訴えられ、その対応のゴタゴタの中でMicrosoftに買収されてしまうという顛末。次々に企業を買収してきたABが、最後はさらに大きな会社に飲み込まれてしまったというのは弱肉強食の世界を彷彿とさせます。しかし、Microsoftの子会社になったからと言ってABがなくなるわけではありません。Kotick氏は去り、その後MicrosoftによってABの人員整理もなされたとあって苦しい船出ですが、血の入替えをもってここから新しいABが始まるのだと思います。そのように期待している根強いファンのためにも、ABの再起が待たれています。

参考文献

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