【完全解説】ぷよぷよを作ったのに何故か消えたゲーム会社「コンパイル」の創業~倒産までの歴史 1982~2024

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【ゲーム会社史】そのゲームを作ったのはというyoutubeチャンネル様に、【完全解説】ぷよぷよを作ったのに何故か消えたゲーム会社「コンパイル」の創業~倒産までの歴史 1982~2024という動画の台本を提供しました。

この記事は、その台本の ( 初稿の ) ベタ貼り記事です。文字情報でザザっと追いたい方用です。

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はじまり

みなさんは、『ぷよぷよ』を作った会社をご存じでしょうか。「ぷよぷよ」と言えば、セガから発売され、積極的なe-sports展開もされている落ちものパズルゲームという印象をお持ちではないでしょうか。しかし実は、オリジナルの「ぷよぷよ」を開発したのはセガではなく、コンパイルという会社でした。この会社、残念ながら今から20年ほど前に潰れてしまっています。「ぷよぷよ」という大ヒット作に恵まれたのになぜ経営破綻してしまったのか、経営破綻後の動きも含めて、コンパイルの歴史を追ってみたいと思います。

コンパイルは1982年に仁井谷正充(にいたに まさみつ)氏によって設立されました。創業者である仁井谷氏の生い立ちから辿っていきます。

仁井谷氏は1950年に広島県に生まれました。実家が貸本屋を営んでいたこともあって、少年時代はひたすらマンガを読んで過ごしていたそうです。また囲碁にもハマっていたそうで、マンガと囲碁、この2つが自分のルーツになっていると後年語っています。一方で興味のないものは完全スルーの性格で、当時流行っていたプラモデルなどは一切作ったことが無かったとか。好き嫌いがはっきりした、極端な性格でした。

そんな性格の仁井谷少年でしたが、勉強はとても好きだったそうです。特に算数・数学が好きで、成績優秀でした。高校卒業後は、ノーベル賞を取った湯川秀樹に憧れて、地元の国立・広島大学へ進学。当時の日本の大学進学率は10%台だったので大学進学しただけでもエリートでしたが、特別特待生という奨学金の返済が半額免除になる待遇で迎え入れられたと言うから、相当に頭が良かったそうです。しかし大学に入ってからの勉強には実用性を感じられず、失望。学生運動とギターとアルバイトに明け暮れることになります。留年を繰り返し、5回目の留年が決まった時点で大学を中退してしまいます。

当時25歳だった仁井谷青年は、学生運動の次は労働運動、ということで、広島電鉄に入社して労働運動に明け暮れます。なんと仁井谷氏、成田空港の開港に反対する、いわゆる「成田闘争」に参加したことで逮捕までされてしまいます。入社3年後、1978年の出来事でした。末端の一人ということで間もなく釈放されたようですが、当然ながら会社は退職。実家に帰ることになりました。ここで仁井谷氏、父親にAppleⅡという当時最先端の端末をねだり、ゲットしてしまいます。「父親としては、28歳の息子に再起してほしいという投資のつもりだったろう」と仁井谷氏は振り返っていますが、当の本人はオモチャが手に入ってラッキーという気持ちだったそう。手製の「ボウリングゲーム」などを作って遊んでいたと言います。このAppleⅡが「コンパイル」の創業につながっていきます。

広島電鉄を辞めてからは、印刷会社に2年、PCショップに2年務めました。転機となったのはPCショップ。当時の仁井谷氏は、プライベートではAppleⅡで遊びつつ、職場では店頭のPC触りたさに集まってくる若者たちの相手をしていました。その、年齢が一回りほども下のPCオタクたちをゲーム制作に誘って興した会社が「コンパイル」でした。社名の由来は、「コンパイル」というプログラミング用語ですから、そこはさすがPCオタクの集まりと言ったところでしょうか。ちなみにプログラミング用語としての「コンパイル」の意味は、「人間が書いたプログラムを機械語に翻訳する」という動詞です。昨今流行りのpythonなどはコンパイル不要のプログラミング言語として有名ですよね。余談はさておき、いよいよ創業したコンパイル。会社の歴史に入っていきます。

コンパイル創業から『ぷよぷよ』の大ヒットまで

コンパイルは1982年に創業。当時の日本はアーケードゲームがまだ主体で、家庭用コンシューマー機はこれからいよいよ広まっていくという過渡期。任天堂のファミリーコンピュータと、セガのSG-1000は、1983年7月15日に同日発売ということでバチバチにやり合っていました。創業直後のコンパイルは、そのセガのSG-1000ローンチタイトルとして、「N-サブ」という潜水艦をモチーフとした画面固定型のシューティングゲームをリリースします。この「N-サブ」、実は1980年にセガがリリースしたアーケードゲームでして、要はそのSG-1000向け移植をコンパイルが担当したことになります。当時のセガはハード開発にリソースを割いており、ソフトの方はラインナップを揃えるために外注にも頼っていたらしく、そうした流れの中で創業間もないコンパイルにも仕事が舞い込んできたのでした。

そうしてセガのセカンドパーティのような立ち位置でゲーム会社として歩み始めたコンパイル。セガとの関係は良好で、SG-1000向けの移植作を多数担当していきますが、それとは別にMSX向けにオリジナル作品もリリースしていきます。そうした中で生まれたのが、当時を知る方にとっては有名な『ザナック』という縦スクロール型のシューティングゲームです。ディレクターは仁井谷社長、プログラマーは例のPCショップで社長がスカウトした広野隆行氏でした。1986年にMSX向けにリリースされたザナックは、翌年にはファミコンディスクシステム向けにアレンジ版が移植され、全世界で100万本を超えるセールスを記録したそうです。ザナックのウリはプレイヤーの実力に応じて難易度が変化するAI。その難易度はALC(Auto Level Controller)というパラメータで管理されたのですが、このパラメータはプレイ中に画面表示されたそうです。そういった他のシューティングゲームにはない新鮮味がユーザーにウケました。ザナックの成功を見ていたセガは「ウチにもシューティングゲームを」とコンパイルに依頼し、『アレスタ』というザナック系統のシューティングゲームも新たに制作されました。こちらはアレスタシリーズとして長く続いていきました。この頃のコンパイルは、良質なシューティングゲームを輩出するゲームメーカーとして業界に認知されていたようです。

この頃のコンパイルが定期的にリリースしていたユニークなソフト(?)として、『ディスクステーション』というのがあります。これはフロッピーディスクという当時のPCメディアの形態を取った雑誌で、いわゆるディスクマガジンというものです。ゲーム会社が発行している例は少なかったのですが、PC情報誌が大好きなPCオタクたちが集まってできた会社とあって、こうした商品が企画・販売されるのがコンパイルなのでした。ディスクの中身は、コンパイルの新作情報・体験版、社員インタビュー、マンガ、イラスト、読者投稿コーナーと非常に充実。これが月刊で刊行されていたというので、ファンにとってはコンパイルを身近に感じることができる、コスパ最強の商品だったそう。これはコンパイルの社風と言ってよいと思うのですが、とにかくファン目線、ファンを喜ばせたいというフレンドリーさが他のゲーム会社にないコンパイルの特徴でした。

ここでもう1つ、コンパイルを語るうえで外せないIPを紹介します。『魔導物語』という3Dダンジョン探索型RPGです。この作品は先ほど紹介した『ディスクステーション』のいちコンテンツとして世に出ました。『魔導物語 EPISODEⅡ CARBUNCLE』というタイトルが初出で、最初に1をすっ飛ばしたのはスターウォーズ(1作目がエピソード4)を意識したんだとか。その後1990年に、エピソード1・2・3がセットになった『魔導物語1-2-3』がMSX2向けにリリースされます。企画・ディレクターを務めたのは米光一成氏。氏はコンパイルのキャッチコピー「の〜みそ コネコネ コンパイル」を作った社員でもあったそうです。当時の米光氏はドラクエやFFといった名作RPG人気にあやかろうとした粗悪乱造の業界にウンザリしていて、そうした中で「女の子を主人公にして、世界は救わない。しもやけになったから薬を取りにいくとか、そんなの。身近な世界を冒険する」という魔導物語のプロットが生まれたそう。

この魔導物語に出てくる敵モンスターがこちらです。皆さん見覚えがあるかと思います。そう、ここでかの『ぷよぷよ』につながるわけです。「ぷよぷよ」は魔導物語1-2-3がリリースされたすぐ翌年、1991年に米光氏によって生まれました。当時は世間ではテトリスが大流行していて、任天堂の『Dr.マリオ』、セガの『コラムス』といった亜種も誕生し、落ちものパズルジャンルが注目されていました。コンパイルとしてもこのジャンルで一発当てたいと、チームが組まれました。結果生まれたのは『どーみのす』という、ドミノ牌の目を揃えたらその目が消えるというゲーム。しかし、この「どーみのす」、面白くない。開発メンバー自身が「どーみのす」を面白いと思えず、改善案も出ないまま、この落ちものパズルプロジェクトは暗礁にのってしまっていました。そうした状況でチームに加わったのが米光氏。『どーみのす』を手掛けたデザイナーは既に別プロジェクトにアサインされてしまっていたため、チーム加入当初の米光氏は必然的にドミノの画を使いまわす必要があると考えていました。しかしそこは「の〜みそ コネコネ コンパイル」の社員。発想を変えて、魔導物語のザコキャラだった「ぷよ」を使えばよいと思い付いたそうです。「ぷよ」はソフトなイメージなので、ソリッドなイメージのテトリスとも差別化できるとも考えました。そこからご存じ「ぷよぷよ」のコンセプトが固まっていき、プロジェクトは再生。1990年に魔導物語1-2-3をリリースした米光氏は、そのわずか1年後の1991年に『ぷよぷよ』をMSX2向けにリリースします。コンパイルの歴史の中でも最重要と言えるこの2作品を立て続けにリリースした米光氏の功績は非常に大きかったといえるでしょう。しかしリリース当初の期待と裏腹に、最初にリリースしたMSX2版の「ぷよぷよ」は反響を呼べず。「ぷよぷよ」の人気に火が付いたのは、連鎖ボイスの実装など改良がなされたアーケード版・メガドライブ版が出たタイミングでした。当時のゲームセンターは『ストリートファイター2』をはじめとした格ゲーブーム一色。ゲームセンター最盛期の時代、2D格闘ゲームの筐体があふれている中に混ざって、少し変化球な落ちものパズル対戦の「ぷよぷよ」が大いにウケたというわけです。きっかけはゲームセンターでしたが、スーパーファミコンに移植されるとさらに人気が爆発。まさに老若男女を問わない大人気で、本当に大勢のぷよぷよファンが生まれました。

そこからはまさに「ぷよぷよフィーバー」。2年後の1994年には『ぷよぷよ通(2)』、さらに2年後の1996年には『ぷよぷよSUN(3)』とナンバリング作を立て続けにリリース。また「ぷよぷよ」との相乗効果を狙うように、魔導物語シリーズの方も『魔導物語A・R・S』など新作をリリース。しかし、「ぷよぷよフィーバー」はゲームの枠を飛び越えていきます。広島の会社らしく、広島名物であるもみじ饅頭に目を付け、「ぷよ」をかたどった『ぷよまん』を展開。当時の広島名物として定番土産に食い込みました。それどころか通販により全国販売までしたというからまさにお祭りのような盛り上がり。お祭りと言えば『全日本ぷよマスターズ』というイベントも外せません。全国から「ぷよら~」を集めて「ぷよマスター」の座を争う趣旨のイベントで、要は今で言うe-sportsの先駆けのようなイベントでした。コンパイルはユーザーフレンドリーな社風で、ファンもこうした催しものなどを通してコンパイルという会社を身近に感じていたそうです。イベントでは「ぷよぷよ」のキャラコスプレをした仁井谷社長が登壇したり、そのまま歌ったり…、そうしたノリも参加者たちには好意的に受け止められ、熱心なファンによる「ぷよぷよコミュニティ」が出来上がっていきました。

コンパイル倒産

そうした「ぷよぷよフィーバー」の裏で、コンパイルにとってあまり良くない事態も進行していました。まず何より、新作タイトルが不調でした。「ぷよぷよ通」は初代「ぷよぷよ」をブラッシュアップした名作で、今でも最高傑作と言う人が多いものの、「ぷよぷよSUN」は出来が良すぎた「通」と比較され、パワーダウンしてしまったと言われています。売上の方も正直で、「SUN」ではコンパイルが想定した売上を達成できませんでした。熱心な「ぷよぷよコミュニティ」は健在でしたが、ライト層は「通」でピークアウトしてしまっていたわけです。また、先ほど「ぷよぷよ」生みの親と紹介した米光氏が、初代「ぷよぷよ」リリース後にコンパイルを退職してしまったのも大きかったと思われます。退職後にリリースされた「通」がヒットしたので当時のコンパイルとしてはさほど気にしていなかったかもしれませんが、米光氏がいれば「SUN」での売上低下も回避できたかもしれません。

もう一つの良くない事態が、急激な会社拡大方針でした。この動画の最初の方でも述べましたが、仁井谷社長はとにかく極端な性格。「ぷよぷよ」を囲碁のように世界で人気なゲームにしたいと、コンパイルコリアを設立。しかし、設立直後にリリースされた「SUN」の売上が想定を下回ったことで、投資を回収する間もなく資金がショートしていってしまいました。経営を圧迫した投資はこれにとどまりません。これまたやはり仁井谷社長の大きな構想で、「ぷよぷよランド」を千葉県に建設する企画があったそうです。ディズニーランドが映画IPをもとにテーマパークを作ったなら、コンパイルもゲームIPをもとにテーマパークを作りたい、と。ぷよぷよランドの準備室を設置し、行政とも話を進めていたとのことですが、後にこの「ぷよぷよランド」も頓挫することになります。その他にも、オートバイチームの結成、ビジネスソフト分野への参入失敗、度重なる本社移転、過剰な広告宣伝など、とにかく向こう見ずな支出がかさみました。企業ですから銀行融資に頼る手もあったはずなのですが、ちょうどこの頃に山一證券が経営破綻。どこの銀行も新たな融資に対して及び腰で、仁井谷社長にはもう残された手段がありませんでした。

1998年3月、コンパイルは経営破綻に至ります。ここに至った理由は大きく2つあると思われます。1つ目の理由は、「ぷよぷよフィーバー」以降、ぷよぷよ一本鎗になってしまったこと。複数IPを手広く構えリスク分散させながら売上を上げるゲーム会社が多い中、当時のコンパイルは「ぷよぷよ」のみに集中してしまっていました。にもかかわらず「SUN」では目標売上を達成できず、続く次作は開発が遅延してしまい、自転車操業状態だったコンパイルは立ち行かなくなってしまいました。経営破綻の2つ目の理由は、先ほども述べた急激な会社拡大方針です。1996年に220人だった社員は、翌年には409人にほぼ倍増。そのほとんどが新入社員だったというから、現場は大混乱だったと思われます。仁井谷社長の壮大な構想を実現するために、従業員への投資・海外拠点への投資・「ぷよぷよランド」への投資、などなどが重なったのに、頼みの綱の「ぷよぷよ」本編で費用を回収できなかった、というのが顛末でした。

ここからは少しシビアな話が続きます。実は仁井谷社長、経営破綻の少し前にセガに運転資金を貸してほしいと相談しに行っています。セガからしたら、コンパイルはSG-1000の頃からのパートナー企業の一つ。「仲間なので支えます」と伝えられ、その後「ぷよぷよの権利と引き換えなら10億円出します。権利は買い戻せます」との条件が出されました。この申し出に対し、仁井谷社長は急場がしのげればよいと深く考えず「ぷよぷよ」IPを譲渡してしまいます。しかし、この虎の子の10億円もすぐに従業員の給与に消え、結局経営破綻してしまいます。それ以来「ぷよぷよ」はセガのIPとして定期的に新作リリースされ、e-sports展開もされ、今の「ぷよぷよ」=セガのイメージが固まっていくことになります。一方「ぷよぷよ」以外のIPの行方はと言うと、コンパイル倒産後に紆余曲折ありながら、最終的に『D4エンタープライズ』という会社に権利保有されることになります。D4エンタープライズは『プロジェクトEGG』というレトロゲームのダウンロード販売サービス事業を手掛けている会社で、コンパイルが手掛けた数多くの作品を今も販売しています(無料配布されている作品も多数!)。

コンパイルの倒産を受けて、「ぷよぷよ」IPはセガに、その他IPはD4エンタープライズに、という話でしたが、それでは社員はどうなったのでしょうか。結論、社員は散り散りになってしまいました。ゲーム業界の他社で活躍されているクリエイターもいれば、全く異なる業種につかれている方もいらっしゃるようです。特に有名なのはTYPE-MOONの武内崇氏でしょうか。創業メンバー4名の内、奈須きのこ氏を除く3名が元コンパイル社員でした。一方、仁井谷元社長はというと、しばらくゲーム業界の表舞台から消えてしまいますが2016年にコンパイル〇という一人会社を設立します。『にょきにょき』という「ぷよぷよ」の欠点を全て改善したと豪語する落ちものパズルを、ニンテンドー3DS向けにリリースしています。続編に向けたクラウドファンディングも募っていたそうですが、その後「にょきにょき」に音沙汰は無く…、最近はというとyoutubeの個人チャンネルにて定期的にゲーム配信をされています。氏によると韓国人の視聴者が非常に多いということで、コンパイルの経営を圧迫してしまったと先ほど紹介したコンパイルコリアですが、現在も仁井谷氏を追っかける熱心なファンも生んでいたようです。

以上がコンパイル倒産後の大まかな動きですが、コンパイルのその後を知るにあたって、もう一つ重要な会社があります。『コンパイルハート』という会社です。引き続きこの会社の歴史も追っていきます。

コンパイルハートの歴史

コンパイルハートは、アイディアファクトリーというゲーム会社の子会社として2006年に設立された会社です。アイディアファクトリー…と言ってもピンとこない方が多いかもしれませんが、あの『薄桜鬼』IPを抱える『オトメイト』ブランドを展開しているゲーム会社と言った方が伝わる人が多いかと思います。アイディアファクトリーという会社は、オトメイトというブランドと、コンパイルハートという子会社を抱えるゲーム企業というわけです。

アイディアファクトリーの創業は1994年(コンパイルの歴史で言うと「ぷよぷよ通」が発売された年ですね)。創業者は桑名真吾氏と佐藤嘉晃氏で、2人はそれぞれ別のゲーム会社に勤めていましたが縁あって一緒にゲーム会社を興すことになりました。当時のアイディアファクトリーの代表作は『スペクトラルフォース』や『ジェネレーションオブカオス』など。その尖った作風から一部熱狂的なファンを獲得し、「買うな。俺は買うが。」というネットミームが生まれました。そうした独特な歩調で成長していったアイディアファクトリーですが、転機となったのは2006年。この年に子会社コンパイルハートを設立しました。

コンパイルハート創業当初から企画されていたゲームに『のーコネパズル たころん』という作品があります。のーコネ…、ピンとこないでしょうか。そう、旧コンパイルのキャッチコピー「の~みそ コネコネ コンパイル」ですね。実はコンパイルハート、創業当時は旧コンパイル社長の仁井谷氏と協業関係にありました。仁井谷氏は旧コンパイルの倒産以降、表舞台から消えてしまったと先ほど述べましたが、コンパイルハート創業直後はそうではなかったんですね。しかしその協業関係も、たった半年で終わりを迎えてしまいます。この辺の経緯はクローズドなようで、調べても詳細不明でしたが、何かしらの不和があった可能性が高いと思われます。社名にコンパイルが入っていて、ロゴまで似ている(ここで「勇気と愛気」の旧コンパイルロゴを映す)コンパイルハートですから、コンパイルリスペクトで始まった会社であるはずです。にもかかわらず、以降は旧コンパイルと全く関係ない会社として歩んでいくことになります。この頃に誕生したのが今でも続くコンパイルハートの看板シリーズ『超次元ゲイム ネプテューヌ』です。ゲームメーカー・ゲームハードを美少女に擬人化したハチャメチャなRPGです。アニメ化もされました。コンパイルハート=美少女ゲームというブランディングはこの頃から定着していきます。

さて、仁井谷氏とは関係が切れてしまったコンパイルハートでしたが、旧コンパイルとは再び縁が生じます。それが、こちらの記事です。「コンパイルハート,旧コンパイルのコンシューマゲームの営業権を,D4エンタープライズから取得と発表」。これはつまり、「ぷよぷよ」以外の旧コンパイルIPを抱えるD4エンタープライズとコンパイルハートが提携し、コンパイルハートが旧コンパイルIPの新作・続編が作れるようになった、というニュースです。やはりコンパイルハート、根っこの部分で旧コンパイルをリスペクトする精神に変わりなかった様子。しかしこの明るいニュースが出たのは2010年なのですが、そこから3年間も具体的な動きは見られず。2013年になってようやく『~聖魔導物語~』という魔導物語の新作がリリースされます。しかし、この聖魔導物語、あまり評価が高くないです。音楽など評価されている部分もあるのですが、最もファンの不評を買ったのが(バグの多さと)登場キャラクター。旧コンパイルの魔導物語のキャラクターがほとんど登場しなかったのです。これは「ぷよぷよ」IPがセガに譲渡されたことが関係しています。セガに譲渡された権利は、正確には、「ぷよぷよ」及び「ぷよぷよに登場した魔導物語キャラクター」だったのです。したがって、セガの協力が無ければコンパイルの魔導物語新作に、アルルも、カーバンクルも、「すけとうだら」も、スケルトンも、「ぷよ」も、登場させられないのです。熱心な魔導物語ファンは権利関係の行方を把握していたため、なんとかセガにも協力を取り付けてもらってアルル達が登場する魔導物語を、と期待していたそうですが、実際にプレイしてみると知らないキャラにまみれた聖魔導物語にガッカリ、となってしまったそうです。以降、コンパイルハートは旧コンパイルの営業権を取得したまま、旧コンパイルIPの展開をパッタリと止めてしまいます…。

しかししかし、「のーコネパズル たころん」・「聖魔導物語」に続く、3度目の正直と言わんばかりの動きが2023年になって起こります。それが旧コンパイル社員だった冨長直人氏の社長就任と、『魔導物語4(仮)』の発表です。まず新社長についてですが、冨長氏はコンパイルに1996年に入社され、新規事業を手掛けるビジネス側の業務をされていたそうです。その後、カプコン、タイトーといった様々なゲーム会社を経験されて、2020年にコンパイルハートに入社。キャリア入社ですが、わずか3年での社長就任になりました。そして、その新社長就任と同時に発表されたのが、魔導物語の最新ナンバリング作『魔導物語4(仮)』です!今回は新作発表時点で既にセガの協力も取り付けているようで、「ぷよ」といったおなじみのキャラクターが登場すると冨長社長が明言しました。さらなる詳細情報として制作スタッフが公開されると、これが元コンパイル社員だらけ。プロデューサー・ディレクターこそ旧コンパイルとは関わりのない安井光氏ではありますが、なんとアドバイザーとして魔導物語IP生みの親である米光氏がカムバック。また当時米光氏と同じチームだった織田健司氏もアドバイザーに入っています。さらには戸部淑氏を始めとする4名のキャラクターデザイン全員、加えて音楽担当まで全員が元コンパイル社員という徹底ぶり。1990年に米光氏が魔導物語1-2-3を手掛けてから、なんと34年越しの最新ナンバリング作で、旧コンパイル同窓会の様相です。新作発表時点では、期待と不安でソワソワされていた往年の魔導物語ファンも、今では期待の方が勝ってきているのではないでしょうか。そんな『魔導物語4(仮)』改め、正式名称『魔導物語 フィアと不思議な学校』は、2024年11月28日発売ともう目前に差し迫っています。

まとめ

コンパイルの歴史、いかがだったでしょうか。コンパイルは「調子に乗って倒産してしまったゲーム会社」と揶揄されることが多いです。確かに仁井谷社長の経営ミス・経営者としての責任感の欠如が非難の対象となるのは分かりますが、同時に仁井谷社長あってこそのコンパイルだったというのも伝わったのではないでしょうか。今でも熱心なコンパイルファンが大勢いらっしゃるなか、字面だけでしくじり会社と一蹴されてしまうファンの無念も、今回コンパイルの歴史を調べる中で強く感じました。コンパイル倒産から10年ほどたった2012年に開催された「魔導同窓会!コンパイルナイト!!」と銘打たれたファンイベントでは、元社員とコンパイルファンが一斉に会し、大盛況だったそうです。そんなファンに愛された会社があったということ、そしてその精神を(一部)受け継ぐ会社が今も頑張っていることを皆さんに知っていただけたなら嬉しく思います。

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