【徹底解説】小島監督のキャリア|ファンのためにゲームを作り続けた40年史【1963→2025】

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ゲーム史探訪notesというyoutubeチャンネル ( 私自身が運営 ) に、【徹底解説】小島監督のキャリア|ファンのためにゲームを作り続けた40年史【1963→2025】という動画をアップしました。

この記事は、その台本のベタ貼り記事です。文字情報でザザっと追いたい方用です。

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生い立ち~キャリア初期

世界中のゲーマーから絶大な人気を誇るゲームクリエイター・小島秀夫氏。ファミコン全盛期の1986年にコナミに入社した小島氏は、『メタルギア』シリーズにより一躍脚光を浴び、やがて副社長にまで上り詰めます。しかし入社から30年を迎えたタイミングで、会社の経営方針が大きく転換。突如として退職を余儀なくされました。一時はセミリタイアも考えたといいますが、新作を待つファンの声に応えるため、自身のスタジオ『コジマプロダクション』を設立。新会社は順調に成長し、2025年末には設立10周年を迎えます。そして60歳を超えた今、新作3本に加えて映画作品も進行中という、キャリアで最も多忙を極める小島氏。その飽くなき創作モチベーションはいったいどこから来るのか。 この動画では、小島氏の生い立ちから現在に至るまでの波乱万丈のキャリアを、徹底的に紐解いていきます。

小島氏は幼いころを振り返って、水を飲むように映画を観ていたと語っています。映画好きの両親は家のテレビで常に映画を流していたそうで、小島氏にとって映画は生活の一部。怖い映画は苦手でしたが、「観ないと怒られるから」と耳をふさいで観ていたそうです。

そんな小島氏の子どもの頃の夢は、宇宙飛行士になること。5歳の時にアポロ11号が月面着陸を果たし、翌年には大阪万博で月の石が展示されました。誰も到達したことのない場所に命を賭けて向かっていく、フロンティア精神に胸を打たれました。

そんな夢がまだ胸に残っていた中学生の頃に出会った映画が、『2001年宇宙の旅』でした。劇場での再上映で初めてこの作品に触れたときに、まるで宇宙に行ったかのような気持ちになったと言います。この頃から、映画監督がもう一つの夢になっていきました。映画は自分を知らない世界に連れて行ってくれる、そこには自分の知らない人たちがいて、色んな生き方があるのだと教えてくれる。そんな体験こそが、現実を生きる人の心を豊かにするのだと感じた小島少年は、自身もそれを届ける側になりたいと考えるようになりました。

しかしちょうどその頃、父親が仕事から帰宅した直後に倒れ、帰らぬ人となります。映画の魅力を教えてくれた父の急逝は、小島氏に深い喪失感を残したと同時に、進路にも影響を与えました。母子家庭となったことで、美術系の大学に進みたいとは言い出せなくなってしまい、就職に強いという理由で経済学部へと進学。しかし大学で学ぶ内容は本当にやりたいことではなく、銀行員や証券マンを目指す友人たちには夢を語れず、自分に嘘をついて過ごしていました。就活でも自分を偽りながらエントリーを続け、製薬会社で働いていた父親を追うように医療機器メーカーを中心に回っていたそうです。やがて内定を得たものの、人事部長との最終面談で、ついに本音があふれ出てしまいました。するとその部長は「小島君はクリエイティブな方が向いている。そっちで勝負しなさい。」と背中を押してくれたそうです。

そこから本当の意味での就活が始まった小島氏。脳裏に浮かんだのはやはり映画でしたが、配給会社に就職しても監督になれるのは一体何年先になるのか。むしろ小島氏が目を向けたのは、当時ファミコンが社会現象になっていたゲーム業界でした。ゲームは、ただ観るだけの映画と違い、プレイヤーとして物語に介入できる――。そんな新しい表現の可能性に、小島氏は「月面に行くほどの未来を感じた」と語っています。まるで未知の惑星に降り立つ宇宙飛行士のような覚悟で、黎明期のゲーム業界へと飛び込んでいきました。

これまで苦労を掛けてきた母を思いやって、小島氏は実家に近い関西のゲーム企業に絞って就活を仕切りなおしました。インタビューではぼかされていましたが、神戸のコナミ以外では京都の任天堂にもエントリーしていたそうです。しかし先に内定をもらえたことからコナミを選択したと言います。 また当時のコナミはゲーム会社として唯一の上場企業だったことから、母親を少しでも安心させたいという思いもあったそうです。

当時のゲーム業界はまだ黎明期。それまではプログラマーが自らゲームデザインを考え、そのまま実装まで担うのが一般的でしたが、やがて分業が進み、企画を専門に手掛ける「プランナー」という職種が生まれていきます。小島氏は、コナミ初のプランナーとして採用された人物でした。自らはプログラムを書かず、アイデアを言語化して、他のスタッフを巻き込んでいく役割。小島氏にはその資質がありましたが、受け手であるプログラマーの多くは、まだプランナーと組むことに慣れていませんでした。加えて、小島氏はまだ実績のない新人。彼のゲームクリエイターとしての第一歩は、決して順風満帆とは言えないものでした。

この状況に更に追い打ちをかけたのが、配属部署でした。小島氏が希望していたのは、当時の主流であるファミコン向けソフトの開発チーム。しかし実際に配属されたのは、MSX向けタイトルを手掛ける、社内でも目立たない部署でした。モチベーションを失いかけ、退職さえ考えていた入社2年目の頃、幹部から「戦争ゲームを作れ」という指令が下ります。当時は映画『ランボー』のヒットを背景に、カプコンの『戦場の狼』や、あるいはコナミのアーケード部門が開発した『魂斗羅』など、戦場を舞台にしたシューティングゲームがブームになっていました。 小島氏の所属するMSX部門にも、トレンドに乗ったタイトルを作らせれば手堅い、と当時の幹部は考えたのかもしれません。

しかし小島氏は、この指令に頭を抱えることになります。戦場を舞台にしたシューティングゲームは既に確立されつつあるゲームジャンル。画面を飛び交う大量の弾が、ゲームの爽快感を支える重要な要素でした。ところがMSXのスペックでは、同時に表示できる弾の数が限られていました。アーケードで遊び慣れたユーザーにとっては物足りないものにしかならないだろう、と小島氏は懸念していました。そしてそれ以上に譲れなかったのが、何の理由もなく人を撃つゲームは作りたくないという思いでした。小島氏の両親は戦争世代。実際に空襲に遭ったときの話を聞かされて育った小島氏にとって、「反戦・反核」というのは揺るがぬ信条でした。

頭を悩ませていた小島氏は、いっそ撃ち合わないゲームはどうか、と考え始めます。戦わないことで、むしろ他の戦争ゲームとは一線を画す作品になるかもしれない。しかし果たして、撃ち合いが無くても面白いゲームとはどんなものか…?行き詰りかけた思考を救ったのは、やはり過去に観た映画でした。捕虜たちが協力して脱走を目指す、銃弾の飛び交わない戦争映画『大脱走』。この作品のように、敵から隠れて任務を遂行するゲームなら、面白く出来るのでは…?

そうして生まれたのが、1987年にMSX2向けに発売された『メタルギア』でした。敵の目を盗んで進んでいく、まるで「かくれんぼ」のようなゲーム。小島氏は初監督作品にして、「ステルスゲーム」という新たなジャンルを切り開いたのでした。MSXというマイナーハードでの発売だったため、爆発的ヒットとはいきませんでしたが、革新的なプレイ体験は多くのゲーマーを惹きつけました。この評判を受けて、コナミはファミコン向けにリメイクと続編を展開しましたが、別部署による制作だったこともあり、ステルス性の薄い内容にファンの評価は分かれました。そうした中、「正統な続編は小島チームが手掛けるべきだ」との声が社内でも高まり、小島氏は自ら新作を企画。そして1990年、『メタルギア2 ソリッド・スネーク』がMSX2向けに発売されます。特に進化が際立ったのは、徐々に謎が明かされていく重厚なストーリー展開。前作でも高く評価されたドラマ性と緊張感がさらに磨かれ、一段と高い評価を受けました。

メタルギア2の開発と並行して、小島氏は2本のアドベンチャーゲームにも取り組みました。1988年発売の『スナッチャー』、そして1994年発売の『ポリスノーツ』です。アクションゲームであるメタルギアでは、プログラム上の制約のため思い描いていた演出を十分に表現できず、歯がゆさを感じていたといいます。そこで小島氏が目を向けたのが、自分の中にあるイメージをそのまま形にできるアドベンチャーゲームというジャンルでした。生粋の映画ファンである小島氏は、映画さながらの構図や演出、セリフ回しを惜しみなく盛り込み、「プレイできる映画」とも言える作品に仕上げていきます。メタルギアで「ステルスゲームの祖」と呼ばれるようになった小島氏ですが、同時に「映画の手法をゲームに持ち込んだ先駆者」としても評価を高めていきました。そしてこの頃から自然と広まっていったのが、「小島監督」という呼び名です。ゲーム業界では現場責任者は「ディレクター」と呼ぶのが一般的ですが、 あえて「監督」を名乗るその姿勢からは、映画への強い思い入れが感じられます。

ここまでに発表したキャリア初期作はいずれも高い評価を受け、セールス面でも好調を記録。小島監督はコナミ社内で着実に評価を高めていきました。1994年のポリスノーツ発売後には、入社10年目で部長職に昇進し、いち開発部門を丸ごと任されるようになります。しかし小島監督は、マネジメントに偏ることなく現場に立ち続け、裁量を活かして自由な開発環境を整備していきました。そして1998年。『メタルギアソリッド』という作品が、小島監督のキャリアを大きく変える転機となります。

メタルギアソリッド~退社・独立

部長への昇進前に手掛けたポリスノーツは、2Dアニメ調のアドベンチャーゲームでしたが、次回作に向けた小島監督の視線は、当時急速に進化を遂げていた3Dゲームに向けられていました。かつてMSX向けに制作したメタルギアでは、実現できなかった数々のアイデア――。「今なら形にできるかもしれない」と考えた小島監督は、3D版メタルギアの構想をスタートさせます。 部門長として自ら予算と納期を定め、次なる監督作品の開発に乗り出しました。

ただし、その構想は非常に大がかりで、完成までには相応の時間を要する見込みでした。そこで小島監督は、自身の新作に注力しながらも、その合間を縫って部門としての成果も並行して示していく道を選びます。その一手となったのが、『ときめきメモリアル ドラマシリーズ』の展開でした。もともと高い人気を誇っていた「ときメモ」シリーズに、『ポリスノーツ』で培ったノウハウを組み合わせることで、新たな魅力を引き出すことに成功します。そうして着実に成果を出しながら、小島監督は新作に腰を据えて取り組める体制を整えていきました。小島氏の社内評価の高さは、監督作品の完成度だけでなく、こうした組織運営の巧みさにも支えられていたようです。こうして現場とマネジメントを見事に両立し、ついに完成にこぎつけた作品。 それこそが、1998年にプレイステーション向けに発売された『メタルギアソリッド』でした。

本作は、1作目・2作目とMSX向けに展開されたメタルギアシリーズの3作目。前作『メタルギア2』から、実に8年ぶりの新作となりました。映像が3D化したことでステルスアクションは格段に進化し、カメラワークによる緊張感の演出も可能に。小島監督がコナミ入社当初から温めていたアイデアは、プレイステーションという新ハードの登場により一気に実現していきました。また本作は、ストーリー面でも高く評価されました。前作『メタルギア2』を踏襲した物語ながら、そこにアドベンチャー作品『ポリスノーツ』で磨き上げた映画的な手法が加わったことで、プレイヤーはまるでスパイ映画の主人公になったかのような臨場感を味わうことができました。こうして本作は、国内外で熱狂的な支持を集め、660万本ものセールスを記録。小島監督の名が世界に広く知られるきっかけとなりました。

とはいえ小島監督はあくまでコナミに所属するサラリーマン。個人の名前が売れすぎるとヘッドハンティングなどのリスクも高まるため、それをあまり歓迎しない企業も少なくありません。しかしコナミは「小島監督作品」として名前を前面に押し出し、ブランディングを進めていきます。小島監督自身も、「作りたいゲームを作らせてくれた」と後年語っており、監督と会社の利害は一致。良好な関係を築いていました。 ただ、打算的な利害を超えた信頼関係が伺えるエピソードも存在します。

2001年、小島監督は次作『メタルギアソリッド2 サンズ・オブ・リバティ』をリリースしましたが、一時は発売が危ぶまれる事態に直面しました。アメリカを舞台とした本作には、現実に存在するワールド・トレード・センタービルや、国防総省・ペンタゴンといった施設が登場します。ところが、発売を目前に控えたタイミングで、アメリカで『同時多発テロ』が発生。ワールド・トレード・センタービルとペンタゴンが実際に攻撃されたことで、作品内容が現実の惨劇を強く想起させるものとなってしまいました。「この内容のまま発売することはできない」そう考えた小島監督は、これまで莫大な開発費をかけてきたにもかかわらず、ゲームを白紙に戻す覚悟で上層部に相談し、退職も視野に入れて社長のもとを訪ねます。そのとき、上月景正社長は退職届を突き返し、こう語ったといいます。「このゲームが世に出て非難されるのは、売った私と、作ったあなたです。私は覚悟を決めました。あなたはどうですか」その言葉に背中を押された小島監督は腹をくくり、必要な修正を急ピッチで進行。結果的にわずかな発売遅延で済み、作品は無事リリースされ、当初想定していた売上も達成。会社に大きく貢献する結果となりました。このエピソードからも分かるように、当時の小島監督と会社の関係は単なる利害の一致にとどまらず、強い信頼に支えられていました。

その後、小島監督は2004年に『メタルギアソリッド3 スネークイーター』、2008年に『メタルギアソリッド4 ガンズ・オブ・ザ・パトリオット』、そして2010年には後の『5』の前日端となる『メタルギアソリッド ピースウォーカー』を立て続けにリリース。『3』では初代メタルギアで黒幕として描かれたキャラクターを主人公に据え、彼が闇落ちする以前の過去が描かれ、『4』ではオリジナルの主人公であるソリッド・スネイクの最後の戦いが描かれました。この間、小島監督は「次が最後のメタルギアになる」と繰り返し語っていました。その言葉には、自身の限界まで全力を注ぎ込むという覚悟と、メタルギアという枠から解き放たれて別の作品にも挑戦したいという想いが込められていたようです。とはいえ結果的には、監督は自らシリーズの舵を取り続けました。それは会社の意向というよりも、「小島監督のメタルギア」を望むファンの期待に応えたいという、責任感と誠実さゆえだったと思われます。小島監督はチームや会社に対してだけでなく、それと同じかそれ以上に、ファンに対しても誠実であろうとする姿勢を貫いています。

そうして走り続けてきた小島監督のもとに、「これはぜひ挑戦したい」と思える新企画が舞い込みます。コナミが誇る傑作ホラーシリーズ『SILENT HILLS』の新作を、小島監督作品として送り出す、という企画です。小島監督は自身を怖がりだと称しながらも、怖がりだからこそ作れるホラーがあると語り、この企画に強い意欲を見せていました。もともとシリーズのファンであり、誠実な作り手でもある小島監督が手掛けるなら、シリーズファンも納得できる作品になる――、そんな期待が自然と高まっていきます。そして、その期待を確信へと変えたのが、2014年に突如として無料配信された『P.T.』というゲーム。その正体は小島監督版サイレントヒルのPlayable Teaser(体験版)でした。ごく短い作品ながら、クリアすることでその「正体」が明かされる構成はプレイヤーに強烈な印象を残しました。さらに、後にアカデミー賞を受賞する映画監督ギレルモ・デル・トロとの共作であること、 主人公のモデルに俳優ノーマン・リーダスを起用することも明らかとなり、期待は一層高まっていきました。

しかし、この『P.T.』は現在では「幻のゲーム」として語られています。配信開始からわずか半年後、突如としてストアから削除され、さらに本編にあたる小島監督版サイレントヒルの開発自体も中止となってしまいました。この背景には、コナミ社内の方針転換がありました。2012年に社長に就任した上月拓也氏は、小島監督と信頼関係にあった初代社長・景正氏の息子。新社長は成長著しいスマホゲーム市場に着目し、家庭用ゲームに割いていた社内リソースをスマホゲームへと大きく転換する方針を打ち出しました。社内やユーザーからの反発を顧みず、家庭用ゲームプロジェクトは次々と中止され、 小島監督版サイレントヒルも例外ではなく、P.T.の削除と共に計画ごと消滅してしまいました。

そしてこの波は、コナミの看板シリーズ『メタルギア』にまで及びました。当時開発中だった『メタルギアソリッドV(ファイブ)』は、序章『グラウンド・ゼロズ』と本章『ファントムペイン』の二部構成。しかし前者の発売以降、社内の空気は一変し、プロジェクト全体に不穏な影が差し始めます。最終的に『ファントムペイン』は発売されたものの、「ここから先も描かれるはずだった」痕跡が数多く残されており、未完成感は否めませんでした。物語として決着は一応付いており、プロジェクト縮小という逆風の中でも何とか形にするという小島監督たちの姿勢はにじみ出ています。それでも、本来ならもっと遊べたはずの完成版を惜しむファンの声は後を絶ちませんでした。そして、結果としてファンを裏切る形になってしまったことに、何よりも我慢ならなかったのが小島監督でした。このままコナミにとどまっても、プレイヤーの心を動かすような作品を作ることはもう難しい。そう考えた小島監督は、ついに退社を決意します。『P,T,』のキャンセル以前、小島監督はコナミのゲーム事業を率いる副社長にまで昇進していました。 その監督が突如会社を去るという急転直下の展開は、ゲーム業界にとってまさに衝撃でした。

30年勤め上げた会社を離れた小島監督。当時は「何もかも失ってしまった」と感じていたらしく、いっそセミリタイアして、週2~3日だけゲームクリエイターの講師をしながら暮らす――、そんな生活も考えていたそうです。しかし、サイレントヒルを共に手掛けるはずだった映画監督ギレルモ・デル・トロが諭しました。「そんな時間はない。ファンはこれまでと変わらない小島監督の大作を待っている」すでに50歳を超えていた小島監督でしたが「自身のゲームを待つ人がいる限り、それを届けたい」と決意を新たにします。そして、コナミ退社の翌日に新会社『コジマプロダクション』を設立。その第一作として発表されたのは、サイレントヒルのリベンジと言わんばかりの布陣。ギレルモ・デル・トロ、ノーマン・リーダスとのタッグによる全く新しいゲーム、『デス・ストランディング』でした。

独立~60歳を超えて

新会社のスタートは、たった4人。

「ヒト」も「モノ」も「カネ」も、本当に何もないゼロからの再出発でした。小島監督は当時を振り返り、まずはスマホにアイデアをメモするところから始めたと語っています。

とはいえ、紙とペンだけで進められるのは、あくまで企画まで。目指すはメタルギア並みの大作ですが、当然4人では作れません。では、何人いれば作れるのか?通常の大作ゲームの作り方なら数百人規模の開発チームが必要とされますが、組織としての身軽さを大切にしたいと考えた小島監督は、100人ほどの規模を目指しました。大作ゲームとしての見た目とプレイ体験は損なわず、その一方で力を入れないところは思い切って省略するメリハリのあるゲームデザイン。小島監督は、100人のリソースを制約に、逆算でゲームの企画を練り上げていきました。

企画の輪郭が見えてきたら、次は人の増員です。人を雇うには資金と事務所が必要なので、まずは銀行と貸ビルに向かいました。しかし、興したばかりの会社には何の実績も無く、苦戦が予想されます。頭を悩ませていた小島監督でしたが、事態は意外なほどあっさりと動きました。銀行幹部と貸ビルのオーナーが監督のファンだったことから、小島秀夫の名前が担保となり、融資と賃貸が決まりました。「何もかも失った」と感じていた退社直後の監督でしたが、根強いファンが再スタートを支えてくれました。

そして、ファンだけでなく、これまで一緒に仕事をしてきたパートナーも力を貸してくれました。増員のメドが立った監督が次に求めたのは、ゲームエンジン。ゲームエンジンとは、ゲームを開発する土台となるソフトウェアを指します。コナミ時代には独自のフォックスエンジンを使っていましたが、今はもう使えません。再び頭を悩ませていた小島監督に声をかけたのは、かつての盟友・ソニーのプレイステーションチームでした。「世界中の開発スタジオを巡って、ゲームエンジンを探す旅に出ませんか?」そんな誘いが舞い込みました。監督がその旅の中で出会ったのが、オランダのゲリラゲームズ。出迎えてくれたのは、後にソニーのソフト部門を統括することになるハーマン・ハルストでした。ここで小島監督は、契約書も何も一切無しで、いきなり無償でDecimaエンジンというゲリラゲームズのオリジナルエンジンを手渡されます。ゲームエンジンとは、その会社の命綱と言っても過言ではない、長年の投資の結晶。「これを作品作りに役立ててほしい」といきなり手渡された小島監督は、ハーマン氏の心意気に感動し、このエンジンで新作を作ることを決意しました。

このように、小島監督がコナミ時代に築いた信頼は、至る所に生きていました。様々な人の助けを借りながら、新作の開発はついに本格化していきます。そして2019年。独立からわずか4年で、『デス・ストランディング』がリリースされました。かつてサイレントヒルでタッグを組むはずだったデル・トロとノーマン・リーダス。さらにはマッツ・ミケルセンやレア・セドゥといった豪華キャストも集結し、まさに一線級の大作となりました。その豪華さとは対照的に、本作で描かれたのは「配達人」の物語。都市をつなぐ道路も、交通インフラも存在しない荒廃したアメリカで、荷物を届けて、人と人をつなぐ。異例のコンセプトの本作を手掛けた監督は、「戦うのではなく、繋ぐことがテーマ」だと語っています。この一風変わったゲームプレイは賛否を生みましたが、全く新しい形のゲームプレイに熱中するプレイヤーも続出しました。

そして興味深いことに、このゲームは時代を先取りしていました。発売の翌年、世界はパンデミックに襲われ、同時に政治的分断も進行。「人と人のつながり」を見つめ直す機会が現実に訪れたことで、まるで未来を予言していたゲーム、と評されました。

そしてこのパンデミックは、小島監督にも影響を与えました。本作の発売前に母を亡くした監督は、自身の死生観を本作に色濃く反映させましたが、パンデミック中には監督自身も体調を大きく崩し、手術を受けたそうです。60歳目前となり、残りの人生で後どれだけの作品を作れるだろうか、と真剣に考えるきっかけになりました。そうして2025年現在、小島プロダクションでは4つのプロジェクトが走っています。

まずは、デス・ストランディングの映画化。制作を手掛けるのは、監督もファンだと語る映画スタジオ『A24』。「単なるゲームの映画化ではない、映画にしかできない表現に満ちた作品になる」 と監督自身も期待を寄せています。

そして、新作ゲームが3本控えています。まず1本目は、『デス・ストランディング2』。本作の構想自体は1作目の時点で既に固まっていましたが、現実でパンデミックが発生したことを受けて脚本は大幅修正になりました。前作で命を賭けてアメリカ中に橋を架けた主人公・サムの新しい旅の舞台は、メキシコとオーストラリアとされています。発売を目前に控えた本作の期待は、高まるばかりです。

そして2本目と3本目は、新作『OD』と『PHYSINT』。『OD』はサイコホラー、『PHYSINT』はスパイアクションとだけ発表されています。明言はされていませんが、これらのタイトルは、幻に終わったサイレントヒル、そして監督の代名詞であるメタルギアを想起させます。60歳を超えた今、限られた時間の中で作ると決めたのは、コナミ時代にやり残したゲームたちでした。

いつだって、ファンの期待を最優先にする姿勢。小島監督のクリエイターとしての姿勢は、今も変わっていません。これからも、小島監督にしか作れない唯一無二の作品を、楽しみに待ちましょう!

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